江戸時代、中山道の宿場町として栄えた上州安中市。おおらかな風土であるこの土地は、また、「文教のまち」としてもしられています。
これは、江戸時代の安中藩主板倉勝明侯によって基礎が築かれました。そして新島襄の登場により、キリスト教の教えがもたらされ、安中の文化に多大の影響を残しました。そして、後に活躍する文化人達は、彼の教えを受け継いでいったのです。 そうして育まれた文化と豊かな自然が私たちの宝です。
駆け足ですぎてゆく、めまぐるしい毎日に心が疲れたら、ここを訪れてみてください。
美しい山々と清らかな水にかこまれた、豊かな町がここにあります。
上州(群馬県)の西に人口6万人の地方都市、安中がある。安中はかつて安中藩の城下町としてまた中山道の宿場町として栄えた。ペリーの黒船来航に揺れる幕末の世時の藩主、板倉勝明は名君の誉れ高く屈指の学者大名であった。
全国より高名な学者を招き、藩士に対して文武を奨励し、藩校を充実させるとともに、藩郷学校(桃渓書院)を創設、庶民教育につとめた。
また、藩士を城内より碓井峠の熊野権現まで走らせ、志気を鼓舞し、体力を鍛えた。これは日本最初のマラソン(安政遠足)として世に知られている。
この藩主の江戸、神田上屋敷で新島襄はうまれた。(1843年)新島は勉学の情止みがたく、元治元年(1864年)、国禁を犯して渡米、ボストン近郊のアーモハスト大学、アンドバー神学校等で西洋文化とその根底にあるキリスト教をまなび帰国し(1874年)父母の故郷、安中でキリスト教を広め、京都にて同志社を創立(1875年)その育成に奔走した。現在の同志社大学である。この板倉勝明と新島襄の存在により安中はキリスト教の香り漂う教育と文化の町としての歩みを始めるのである。町の中心には武家屋敷や大正8年(1919年)落成の安中教会 新島記念会堂が木漏れ陽のなか、静かにたたずむのである。
1864年に渡米し、1874年に帰国した新島襄が10年の歳月を経て両親との再会を果たした地がここ安中市新島襄旧宅になります。新島襄はそのときのようすを次のように詠じています。
「古郷へかざる錦は箱に在り、今身にまとふ時にあらねば」
後に同志社英学校設立のために関西に赴くまでの間、新島襄はこの地で熱心な布教活動を行いました。ここには新島襄ゆかりの遺品や関係書類また写真などが多数展示されています。
安中教会は、1878年3月31日の夜、有田屋当主湯浅治郎の私設図書館「便覧舎」において、地元の求道者30名が新島襄から洗礼を受け、続いて新島襄の司式で「公会設立式」を執り行ったのが始まりです。当初は便覧舎で、1883年には「碓氷会堂」を建設、ここで礼拝が守られていました。
1919年、新島襄召天30年を記念して、現在の安中教会教会堂(新島襄記念会堂)が建設されました。
安中教会は、新島襄が帰国後、日本で最初に福音の種を播いた群馬県で最初の教会であると同時に、日本人の手で創立された日本で最初の教会でもあります。